≪自己肯定感が高い≫
≪自己肯定感が低い≫
よく聞く言葉ですね。
人が、自分に対しての認識に興味を持つことは
良いことだと思います。
しかし、
それらを結局、自分を傷つけることに使っては意味がありません。
自分の中の≪不足している≫と思える部分、
≪嫌だな≫と思ってしまう部分、
そこも含めて≪自分だから≫と
穏やかな気持ちで受け止められると
人生が好転していきます。
少なくとも、日々を楽しく過ごせるようになります。
自分の人生が上手く行かないのは、自分の能力が低いから?他人より劣ってるから?
人生が上手く行かないのは、
≪不出来な自分≫だからではありません。
≪不出来な部分がある自分は”ダメだ”≫
と
≪自分で自分を裁く≫から、
≪自分に対してダメ出しをする≫から、
上手く行かなく感じるのです。
ダメ出しの数が、多くなればなるほど、
≪上手く行かない感≫が多くなり、
≪生きづらさ≫を感じやすくなります。
他人より良い部分を肯定出来るのは普通のこと
≪自己肯定感が高い≫ことを、
【自分の優れた部分を見つけるのが上手なこと】
と思い込んでいる人が一定数いるようです。
≪他人より優れている部分≫に対して、
”良し”とすることは、大概の人が出来るでしょう。
しかし、これでは(より良い人生を歩むには)
≪優秀な能力をたくさん≫持っていないといけなくなります。
そうすると、
常に、自分と他人を比較し続けて、
≪他の人より劣る部分をどうにかしないと≫
いけなくなります。
≪誰よりも全ての面で優れている≫
ことは、可能でしょうか?
極端なことを言いますが、
オリンピックで全種目、金メダルを取れる人がいるでしょうか?
人間は、主に3つの要素で構成されていると思われます。
・精神
・頭脳
・身体
この1つの分野、
運動面ですら、全ての面で1位を取れる人はいません。
当然、3つ全て誰よりも優れていることは可能でしょうか?
不可能ですよね。
文明は、
≪不可能だったことを可能に≫しようとして発達していきますが、
世の中には
≪どうあがいても変えられない≫事があります。
それに拘って、執着して
時間も労力もお金も費やして、
人生を楽しめない。
その状態こそを
不幸というのです。
他人より劣る部分に〇(マル)を付けることが出来れば人生勝ったも同然
≪他人より優れた部分をたくさん持っていること≫が
人生の幸せ・不幸せを決めるのではありません。
自分の
≪劣っている(と思える)部分≫にも
”良し”とすることが出来れば、幸せを感じることが増えます。
そのためには、
≪優劣≫に視点を置くのではなく、
≪やっていること≫≪動作≫に対して注目をする。
具体的には、
何かをするときに、
1位を取ることにフォーカスするのではなく、
行っていること自体に喜びを感じることが大事
なのです。
能力を磨くことではなく、
好きなものを選んでいく。
そもそも、
≪自分が好きなモノは何か?≫を見つけていく。
そのことが幸せな人生を歩む上で、
必要不可欠なこと、なのではないでしょうか?
もちろん、
能力を磨くことに幸せを感じるストイックな人もいるので、
それはそれで、【個性】としていいんですけどね。
余談:劣等感も優越感もどちらも持ち合わせない新人類?
さて、こういった記事をあげると
≪劣等感をいっぱい持ってるから自分は不幸≫
と思い始める人が出てきます。
はっきり言って、
いたちごっこです。
結局、自分を不幸だと思いたい人は、
≪自分が不幸な原因≫を探そうとします。
それは、脳の働きとして、
どうしようもないことです。
≪劣等感≫も≪優越感≫もあっていいのです。
それに対して、
【良い・悪い】のジャッジ(意味づけ)をするから
ややこしくなるのです。
≪劣等感≫も≪優越感≫も、
ただの≪物差し≫です。
そこに≪幸・不幸≫を決めるものは何もありません。
目盛として、あるだけです。
が、最近、
『この≪物差し≫自体を持っていないのではないか?』
と思える人が増えているようで、
そのこと自体を憂いています。
この≪物差し≫があることによって不幸を感じるのであれば、
そんなもの無くて良いのですが、
そもそも、
≪感情自体≫が未発達で、
世の中への興味も薄く、
『”自分”という意識があるのかな?』
と感じる人が増えてきている気がします。
主体性がなく、どこか≪操り人形≫のような存在。
なんだか、不気味さを感じてしまうのは
筆者だけでしょうか?
まとめ:シンプルにいきましょう!
さて、
色々と解説をしてきましたが、
≪幸せな人生≫が欲しいのであれば、
シンプルに
≪自分は幸せである≫と思い込んでしまう。
思い込んでしまえば、あとは
脳が勝手にその理由を探してくれます。
これが一番の近道です。
シンプルに生きていきましょう。
これを読んでいるあなたが
日々を楽しく過ごせるようになりますように