別に意地悪で教えてくれないわけじゃない。
“常識”とは、《“皆が当たり前に知っていること“だと思っていること》であり、
マナーは『守らなければいけないもの』ではなく、自主的にすることだから。
少々常識外れでも、マナーに違反していようとも、
『判ってて、やってるんだろうな』と受け取られているだけなのだ。
『マイ・ウェイ』を貫きとしたい人もいるし、今や『個性』が尊重される世の中。
人のことには口出しをせず、ただ黙々と自分の信じる道を進むだけ。
だから、《教えてもらう》ことを期待せず、自分から身に着ける習慣を。
というわけで、あえて、言及してみようと思う。
《神様に好かれる方法 神社参拝編》
かくいう筆者が間違えていたことが、多々あり
『そもそも、なんでこんなことがまかり通るのだ?』
と思ったので、地道に草の根作戦で、本来の参拝方法を
知ってる範囲で伝えて行こうと思った次第です。
一時期、ものすごくテレビ出演の多かった江原氏を始め、
『視える方』の仰っていることを参考にしたものです。
(ちなみに、筆者には霊能力の類は、一切ない模様。視えません)
細かな所作は、他にもたくさん説明されている方がいらっしゃるので
そもそものアウトラインのようなものの説明を。
ちなみに、神社によって作法が異なることもあります。
その際は、その神社に仕えられている方が仰ってることを優先ください。
こうしたら確実に嫌われる。知らずにやってる不敬行為。
境内は、神様の敷地、鳥居は、神様の門、お社は神様のおウチやお部屋、
本坪鈴(ガラガラ鳴らすやつ)は、神様のおウチのインターホン
のようなもの。
入口でご挨拶もせず、敷地にズカズカ踏み込んで、玄関前でピンポンダッシュしたり
出てくるまで鳴らし続けたりしてませんか?
小銭を投げつけ、『願いを叶えろ』なんて頼みごとしてませんか?
もし、そんなこと、アナタにしてくる人が、実際にいたら?どうしますか?
『二度と来るなっ』と出禁にしませんか?
人にされたくないことは、人にはしない。
神様も同じことです。
今一度、ご自身のやってきた行いを振り返ってみてください。
神様に好かれる以前の問題。最低限守っておきたいマナー
本来の作法としては、境内に入る前に一礼、鳥居の前でも一礼、
真ん中は神様の通り道として開けておき、左右どちらかの端を歩き、
御手水で手や口をゆすぐことで身を清める代わりとする。
お賽銭は、静かに置くように入れ、心を静め本坪鈴をならし、
二礼二拍手をして心の中で名前を名乗り、住所を述べて、
日々平和で過ごせる感謝をし、お礼を伝える。
もし叶えたいことがあれば
『○○すべく努力しています。見守っていてください』
と申し上げるにとどめる。
最後は一礼をして、帰り道も、鳥居を抜けたら振り返って一礼、
境内から出たら同じく一礼。
形ばかりに捉われず、敬う気持ちからの行動をしてください。
また、自助努力なしに、他力本願だけでは、叶うものも叶わない。
お願いごとの前に、『やるべきことはしっかりやる』姿勢をお忘れなく。
神社は、《お願い事をしに行く場所》ではなくて、
《日々の感謝を伝え、自分の在り方を再確認》しに行くところです。
どうしても叶えたいことのためのご祈祷。願いは完了形で。
とは言えど、神頼みをしたくなることもあるでしょう。
そんなときは、正式参拝(昇殿参拝)という方法があります。
こちらは、社務所などに問合せをして申し込みをしてください。
“正式”“昇殿”ということなので、ご自身の服装もそれに見合った格好を。
お願い事は、『○○できますように』ではなく、
『お陰様で○○できました』と完了形で伝えること。
願いは、1つに絞り、叶った場合は《お礼参り》を忘れずに。
願掛けは、解くとこまでが一通りのセットです。
まとめ:目に視えない存在だから、形よりも中身が大事
さてさて、いかがでしたでしょうか?
筆者自身、まだまだ学ぶことばかりですが、
現状で知っている知識のアウトプットをしてみました。
また新たな情報が入り次第、変更なのか訂正なのかアップデートなのか?
していこうと思います。
一応、《作法》というものは、あるけれど、
一番大事なのは、《敬う気持ち》だと思っています。
いくら形が整っていても、中身がなければ意味がない。
形(を守ることはある程度必要だけれどあまり)に捉われ過ぎず
ご自身と向き合って参拝されてくださいね。
ちなみに筆者は、《人知を超えた存在》がある、と考えていますが、
特定の宗教の信者でもなければ、所属もしていません。